がんばれない

がんばる日記。

何も説明ができないものを好きになる

好きだけど、なぜ好きなのかは説明できない。
どういうところが好きなのかが説明できない。
読書感想文があらすじ説明になる。
本当に好きだと思っているのかわからなくなる。
そんなことを繰り返してきた。

私は割とガンダム関連のアニメ作品を見ることが多いきがするのだけれど
それらは最初のイメージよりぜんぜんハードルが低いのではないかと思い始めてきている。

関連作品と言っても、たくさんの作品がありすぎてどれを見ればいいのかわからないというのはあると思うけど、それは例えば次のクールではじまるたくさんのアニメの中から何をみるのか決める感覚と対して変わらないのかもなぁという印象が芽生え始めている。

昔はその中からこれはガンダム作品だから見てもわからんだろうしと言う先入観から見るのをやめていたタイプの人間のだったのだけど
いざ見てみると、
なんかよくわからんがおもしろい。もう一度見たい。
なんて繰り返し見ていたりする。

さらに、わたしは記憶力がないのでアニメを1周や2周見たくらいでは主人公の名前さえも覚えられないことがほとんどだし、見た後の感想を聞かれると、とても困ってしまうのだけれど
アムロ・シャアくらいならば名前を知っている。
もうそれだけで何も知らない作品よりも見始めやすかったんだということに気がついたりして。

そんなことを言ってしまうと本当に好きな人からはそんな甘い気持ちで見始めるなんて間違いだとか言われそうな気もしてビクビクしてしまうのだけど
まあ、見るだけなら自由でしょうという軽い気持ちみ始めるのである。

この軽い気持ちというのが大事で、
アニメの見方がだんだん変わってきていることに気がついてきた。
元々声優さんが好きだということもあって好きな声優さんが出ている作品を主に見ていた時期もあったのだけれど
そういう見方だと好きのレベルがその作品をもっと知りたいとかそういう方向に持っていける気力を湧かせるには何かが足りなくて
みること自体がつまらない事に変換されてしまうことがあって
勝手に苦しんでいる時期があったりした。

でも、過去に(それこそ10年以上も前に)途中で見るのをやめてしまったり
見てたのに内容を覚えてなかったりする
記憶の中にうっすら残る作品を改めて見ることで
過去にこれをみて何を考えていたかとかを思い出したりしているうちに
それら見て何を思うのか何を感じるのかは本当に見た人の受け取り方次第なんだなあっていうのを実感して
それからは少しずつアニメを見るハードルが低くなってきていろんな作品が見られるようになってきた気がする。

今はアニメを見るのがたのしい。
世の中には、本当にとってもとっても素敵な作品ばかり。
批判ができるほど入れ込むこともできなくて、感想を語れるほど愛せるものはないけれど。
とってもとっても楽しい。
働かずにアニメだけ見ていたい。

働かずに。

そう、全てはただはたらきたくないというだけのお話。

以上。

引きこもり生活と腰痛と

現在、一時実家に帰宅中。

このコロナ禍で仕事がリモートワークになり、さらに元々の出不精な体質も相まってほとんど外には出ず、家の中に引きこもっていた。
緊急事態宣言があった頃からだから、4月からか?
そう考えると、6ヶ月弱になるのか?

体感は3ヶ月くらいだったので思ったより長くてびっくりしている。

最初はあまり動かなくていいから(仕事を家でやらなければいけない状況以外は)楽だなと、そう思っていた。
部屋は6畳程度のワンルーム。料理をするのも寝るのも仕事をするのも全てが同じ部屋。
物はだいたい手の届く場所にあるし、寝床から起き上がってよこを向けばそこはすぐ仕事をするスペースになっているし、料理をしに行くのも移動はほとんどないし
本当に楽だと思っていた。

そうやって唯一買い物へ行く時間以外はほぼ歩くことさえも無いような生活を続けたところ、
なんどか風呂場の段差を登ることができなくて泣きそうになるという体験をした。

もともとぎっくり腰などを何度かやっていたので腰は弱い気がしていたのだけれど、ほぼ座る寝るだけの繰り返しの生活でついにようやく本格的に腰を痛めてしまったと感じた。
腰のどこが痛いのかはわからないのだがとりあえず痛い。もう痛い。たまに息苦しさもあり、さすがにこれはまずいと思うこともあった。

更に、気付いたら物が二重に見えるという状態になっていた。目がおかしかった。右目と左目の映像がちゃんと合わさらないという感じ。これはほんとうに意味がわからなかった。

そんな中、母の誕生日に実家へ帰ってきたのだけれども、そのときに実家の広さのありがたさを知った。
そんなに大きな家ではないのだけれど、寝る場所と仕事をする場所が違うというだけで感動してしまう。

何かをするために強制的に上り下りしなければいけない階段
物を取るために動かなければいけない距離
自分の正面を見たときに見える物との距離
天井の高さ
追い焚き機能のある湯船

一人暮らしをしている部屋とほんの少ししか違わないものもあるかもしれないけれど
もう、全てが合わさると全然違う。

腰痛は、帰ってきてからも眠れないほど痛くなる時もあるのだけれど、温かいお風呂に30分程度浸かると痛みが和らぐ。
いざという時にストレッチするくらいの広さもある。

おそらく都心の交通の便がよい狭い部屋というのは、本当に『通勤するのに向いている部屋』なのであって、決して引きこもりには向いてはいと感じたし
きっと、健康的に引きこもるには程よい広さがあった方がよいのだろうと思った。(書斎という部屋の意味がほんの少し分かった気がした)

そんな感じで今、一人暮らしの部屋へ戻るタイミングを失っている。
目は視力の低下を非常につよくかんじているけれど、物が二重に見える現象はたまにしかなくなった。
帰ってきたときは瞬きをする瞬間以外は常に二重に見えていたのでだいぶ良くなったなと感じる。
腰痛も心なしか和らいでいると感じる。
戻るには、ちゃんと環境を整える必要があると感じるのだけれど、どうやって整えるべきなのかがわからない。
もう、退居したほうがいいのかなとも考え始めている。

一体なんのために一人暮らしを始めたのか…。悶々とする日々が続く。

生きるのが面倒くさい。

以上。

記事の削除の仕方がわからない

間違ってなにも書いていない記事を公開してしまったけれども
まぁ誰が読んでるわけでもないので放置で。

身の回りの整理ができないにんげんなもので。申し訳ない。
わからないことをわからないまま放置しているのも、それはそれで気になりはするのだけれども。
いまは調べるとかそんな気分ではないのである。

今日書こうとしたのは、最近のことを書いとこうかと思いまして丸。

まあ、よくあるやる気が出ないとか働きたくないとかそんな感じの憂鬱な気分が続いております。
ご飯も1日1食。洗い物は多分2週間くらい放置しているだろう。燃えるゴミは昨日出せたのだけれど、資源ゴミは2週間分くらい溜まっている。
たまればたまるほどやる気が出なくなるのはわかっていたのにこの始末。
こんなこと書いている暇があるのならと思うのだけれど、もうすでに電気も消して横になっているのでこれを書いたのち寝るということしか考えられない。
動きたくないという気持ち。わかるだろうか?もう、できるだけ静かに動かずにただ時間が過ぎるのを待ちたいという気持ち。
これが鬱病というのならそうなのかもしれん。
でも、ずーっと底に眠っていた怠惰な気持ちが何故かいきなり表に出てきてしまっただけな気もする。
だって、私ってやればできるんだから。
わからんけどそういう気持ち。わからだろうか?

一本だけ妙な自信が真ん中に立っていて、これを折ってはいけないと必死にもやもやした気持ちが周りを守っている。
こいつがちょっと何かすると折れちゃいそうな気がして、なるべく身体を動かさないように・衝撃をあたえないようにと守っているようなそんな感じがしている。脳がそういう命令を出しているように感じる。
できるときにできることしかやらないと決めた。
とりあえずいまは休む。仕事もしながらだけれども。
有給はどのくらい残っていただろうか。必要ならば使いながら。シャーペンの芯が折れるのが怖いからシャーべン使うのやめとくわって。それがいいって脳が言っている。
これが近況。

以上。

嫌なことが待っていると考える、悶々

今回は恋愛感情について。

待っている嫌なことは、平日という現実。
逃げるために考えてしまうので少し書きます。

好きな人が居るとは、一緒にいたいと思う感情とは、一体なんなのかと。

常々、1人になるのがとてもこわいとはおもっている。だからといって一緒にいたい人が居るわけでもないのだけれど。
一体何を間違えたのか、間違いではないにしてもなにを忘れてきたのか、なにを拾いそびれたのか、見落としてきたのか
わからないけれど、恋愛というものがてんでわからない。

人間以外の生物は、本能で行動するとかなんとか
学生の頃そう学んだような。わたしが間違えてそう解釈してしまっただけなのかもしれないけれど、なんとなくそんな風に覚えている。

専門家でもなければ人間以外の生物になったこともないのでそれが本当なのかどうかはわからないけれど
種を絶滅させてはいけないという意志みたいなものが細胞レベルで組み込まれているとかなんとか…みたいな。
聞いたのか勝手な解釈かどうかはわからない。

そう、なにもわからないのだけれど。
わからないのでなにをかんがえていたのかわすれかけている。

人間には知性があって…
なんて、こんな遠い話をしたかったわけではない。

身近な人を好きになる。
そう、それがわからない。
何億人という人間がこの地球上にはいるのに、なぜその人なのか?
うまく言葉にできないけれど、何億人という人間がこの地球上にいるからこそ好きになる人を見つけられない人もいるのではないか?みたいなことも考えられるし
たった1人の人を見つけなければいけないというものでもないと思うし
相手が人間であるなんていうのも勝手な考えだとも思えてくるし
なんだ?そもそも好きってなんなんだ?ってなる。
何も、好きだけが恋愛感情ってわけでもないと思うしそもそも恋愛ってなんなのよ?って思う。

学生の頃から、学校という小さい枠の中で好きだの嫌いだのやっている周りの人間を見てなんなんだこれはと思っていたのは確かだし
でもそれらを見ているのは嫌いではなくて、むしろ同じように悩んでみたかったみたいな憧れはあっだはずで
なんとなくそれを拗らせてしまっている感じは否めない。

こんな話をしたら人生の先輩方は、
きっとまだそういう人と出会えていないだけ
なんてことばをかけてくれるかもしれないけれど
そういう?どういう?出会う?このままずっと出会えない可能性もあるのか?何をもって「まだ」といってるの?
なんてことを考えてしまうので、その言葉にはそうかもしれませゆねだなんていう言葉さえも返せなくなってしまう。
ただし「きっと」なんていうことばを付けて保険をかけてしまう所の気持ちだけはわかるきはするけれど。

もしかすると、恋愛をできる人は決断をできる人なのではないだろうか?

眠いのでこれ以上は考えられないからまた後でじっくり考えてみようとは思うけれど
どこか、決断=諦め , 諦め=悪 的なイメージの刷り込まれた私の脳には、ちょっと理解するのには時間がかかりそうなきがしている。

でもやっぱり決断できる人って凄くかっこよいと思うのです。
恋愛できる人、ちょっとかっこいいかも。

以上。

自分の体で1番好きな部位は?

なんだろうか、この質問は。
こんなこと聞かれたらそんなものないと答えるだろう。

実は、わたしには密かに好きな部位があだたりするのだが
それでも、こんな面倒くさそうな質問をされたらやっぱりそんなものはないと答えてしまうだろう。
わたしはそういうとっさに嘘をついてしまう人間なのである。

でもここではちょっとだけ好きな部位について書こうかなということで、この記事を書き始めた。

私がわたしの体で1番好きな部位は、前脛骨筋。
最近そういう名前の筋肉なのだと知った。だから、それを知った記念に書いておきたかった。
名前、多分あってると思う。間違って覚えてても別に気にしないけれど。

どこの筋肉なのかというと、スネのところにあるやつ。

いつだったかはおぼえていないけれど、つま先をあげると異様に膝の下がボコっと盛り上がることを発見してから
それをボコっとするなぁと見るのが好きになった。
早歩きをするとすぐに痛くなるその筋肉は、長く早く歩きたい私の敵とも言えるものなのだが。

数カ月前、まだ普通に会社に通勤していた頃までは
駅から会社までを一生懸命早歩きで通っていたのでこの筋肉をよく使っていたきがするのだけれど
最近は歩く機会も減って、早歩きもできなくなってきてしまっている。
この筋肉を衰えさせてはダメだ。しらんけど。

とりあえずこの使命感と前脛骨筋への気持ちを忘れずに生きて行こうと思っている。
機会があれば、またたくさん歩きたい。
歩きたいのである。

以上。

日常の常

眠れないので少し書く。

そういえば、東京の梅雨入りのニュースを見逃した。きがする。
でも、なんとなく雨が多いことから梅雨なんだろうなと催促はできて
これが明けると夏が来るはず。
また今年も40度近く気温が上がったりするのだろうか。

天気予報には毎日雲と雷のマークがどこかしらにはついていて
ゲリラ豪雨だとかそういえば毎年そんな感じのニュースが多い時期だったなとか思い出す。
台風も、来るのかな。それはもう少し先か?

低気圧による体調不良があるという話は最近よく聞く話なのだけれど、意識したことがないからよくわからないし
意識してみたところでなにが変わるわけでもなくて。
みんなそんな知識をどこで手に入れるんだろうということばかりが気になってしまうのは何故なのか。

普通に生きていれば身につく知識だとかが足りないと思っていたのだけれど、最近はわたしが普通に生きてるだけでは知識は身につかないというのも少しずつわかってきていて
能動的に行動を起こさなければいけないということに気づくにはちょっと年齢的に遅いのでは?などと考えてしまうのだけれど、その話にはそんなことを考えている暇があるなら行動を起こせよという、そのひとつの終着点しかない。

仕事中に人の出産のお話を読んで、めちゃくちゃ泣いてしまった。何故涙が出たのかはわからない。
私は一体なにをしているのだろうという気分になったのは事実。それでもなにも変わることはないのだけれど。

歳を取ることに対して、また少し重さを感じてしまった。
この年齢にしては色々な経験が足りなすぎると。
人との関わりも、やっぱり本当は欲しい。
すこし前、多分2年くらい前まではずっと友達が欲しいとかいっていた気がするけど、何故諦めたのかはもう忘れてしまったな。
まあ、状況をみるにただただ無理なだけなのだろうけれど。

オンライン会議でお前の声だけ聞こえずらいと指摘された。新しいマイクを買わなければなるまい。
メールを確認しそびれて、gitの招待メールの期限が過ぎていたのを放置している。これもはやく連絡せねば。
仕事はやらなきゃいけないことばかりで憂鬱だ。
でもこれがなけりゃなにもしない、本当になにもなくなってしまう気もする。

今の心理状況で人の肉声を聞くと涙が出そうだ。実際はそんなことはないのだろうけれど。
最近は全てが機械越しになってよかった。よかったのだが、若干人恋しさはあって。

一人暮らしを始めてからテレビを見る機会もなくなってしまって
1週間ほど前、久々に電車に乗って電車内の広告画面を見だ時はすこし感動した。なんの感動だったのかはわからない。

私自身、なにも変わっていないと思っているのだけれど、何かしら変化しているのだろうか。
人間、不変はないのだと
それはつまり衰退と同意であるといっている人がいたな、と思い出す。
何かが変わっているのだとしたら、それが衰えでなければいいなと思う。願望。衰え以外の要因は見つからないけれど。

最近、とにかく1日が終わるのが早い。焦っているつもりはない。
ゆっくり生きていく覚悟が少しずつできてきている気がする。不安はまだまだたくさんあるけれど、これが歳を取るということならば悪くないかなとも思えてきている。
もう30歳という考え方もまだ30歳という考え方もどちらもわかってきているような気がする今日この頃。
ただ、この余裕を体に染み込ませるにはあと30年はかかるのではないだろうか。
心に余裕ができたとき、他人を受け入れられるようになるみたいな話は聞くけれどとてもできるようになる気がしない。
そんなこと待つよりはやく死ねればいいのにと考えることもある。

何を書いているかわからなくなってきたのでここで終わりにしておこう。
何も、すっきりもしなかった。悲しい。

以上。